観福寺について

観福寺の歴史

当寺は鎌倉中期に法燈国師を開山、覚元禅師を草創、吉田小将範盛を開基として創建される。これ以前の草創については不明、正安四年(1302)の覚元禅師住持の代の六波羅御教書が残されている。往古は七堂伽藍地にて塔頭寺領を有していたが、天正年中兵乱のため炎上、法燈派の法系も覚元ー玉川ー亨菴の三代で途絶え、寛永初年龍賀法印(田辺市真言宗高山寺第三世)退席後当寺に仮住、寛永二十年(1643)陽雲和尚(田辺市臨済宗海蔵寺第二世、海蔵寺退席後住山)が中興。寛文七年に京都妙心寺の直末となり、その法系を今に伝える。

亨保十七年(1732)境内周八町が寺社奉行より「六波羅御教書」並びに「二十体羅漢」を有する由緒古跡の禁殺生地の指定を受ける。堂塔も幾度か再建され、安永六年(1777)黄国和尚が現在の本堂を再建、周辺の整備もなる。法燈国師が唐土より持参せし二十躰羅漢、法燈国師坐像、覚元禅師坐像、愚堂国師香語、龍賀法印の伝説として「(蛙)嗚かずの池」ヽ「龍賀法印入水」等があり、また「三つ鱗(はだ)」の寺紋にまつわる伝説等が残されている。

山号は当初「八花山」、寛文六年御改以後「八」を「白」と改め、「白華山」となる。末寺として、医王寺(栄)、弘安寺(栄)、西光寺(中)、両願寺(才野)、丈六寺(才野)の五ヶ寺が挙げられるが、このうち四ヶ寺が廃寺となり、現在残っているのは丈六寺(本堂・廊裡)だけである。

古くは江戸時代より近西国第八番観音霊場、昭和に入ってから、紀伊之国十三佛霊場第十番礼所、ぼけよけ二十四地蔵尊霊場第七番礼所に制せられる。

紀州徳川家と観福寺

元禄七年(1694)五月三十日、第三代紀伊国主綱教が、瀬戸から徒歩にて富田に遊び、田辺に向っている。観福寺中興三世洞雲和尚の記に、「高林院様、瀬戸御入湯被遊候即、当寺へ御成被為遊、住持某御目見仕候処、安置懺仕候二十体羅漢之儀御尋有之、尚又京郡六波羅より被下置候在判状奉入上覧候 則並子百疋頂戴仕候。」とある。

元禄十五年(1702)三月二十五日、「田辺町大帳」、「万代記」とも、「同廿五日主税頭様湯崎御発駕被為遊、陸御通、富田観福寺二御入、……」と記している。主税頭は後の八代将軍吉宗公のことである。
(田辺文化財弟八号、楠本慎平著「六波羅御教書」を参考)

また、位牌堂には長保寺に眠る紀州藩第六代藩主、徳川宗直の位牌が伝えられている。

おりゅうかさん 龍賀法印

龍賀法印の墓は両側に並んでいる当寺歴代住職の墓とは違って卵塔の表に刻字が見られない。これは石工が字を彫ろうとするとノミを持つ手から血が出てとまらないので、恐ろしがって誰もこれに手をつける者がなく今日までそのままになっている。

田辺市の『高山寺雑事記』四番日含の項には「当時第三代目に龍賀法印と申す名僧御座侯。常に木履をはき、数十里を行き、折々仏神と御物語致され候事、人の咄し仕り候如く相聞え候。或時、富田権現宮の社内にて御物語致され候を、神主隠れ聞きて耳つぶれ申し候と申す事、今に俗説申し伝え候。又富田観福禅寺の池の蛙鳴き候事、法印釈法の障りに成り侯とて、口留めの加持致され候故、今以て鳴き申さず候。其の外色々の奇特申し伝え、雨請等の不思儀数々伝え承り侯。当寺を隠居致され、富田観福寺、権現海門寺等住持仕り、寛永元子六月三日、星霜六十一にて和歌二章を残し、端身印を結び、海中に望み水定致され候。遺言にて一七日に当り村人引き上げ、観福寺に葬り申し侯。石塔今に之れ有り候。今年迄百六十八年に罷成り候、辞世の歌として

「浮世をば六十一字夢に見てさまさでかえる是も夢なり、又何にものか何ものを呼ぶ何もなし、何もなければ何ものもなし」

と記されている。昔から地元はもとより遠方の人々からも頭の病気やイボを除去してくれる霊験あらたかな「おりゆかさん」として親しまれている。
『田辺文化財』第十二号楠本慎平著龍賀法印に関する覚書」参考

アクセスマップ

和歌山県西牟婁郡白浜町栄162 TEL:0739-45-0345

紀勢道 南紀白浜インターより車で5分

南紀白浜空港より車で10分

きのくに線 白浜駅より車で10分、紀伊富田駅より徒歩5分